古代エジプトにおけるピラミッド
古代エジプトにおけるピラミッドは、ヘロドトスの『歴史』に記述されて以来、一般的には奴隷の築いた王墓とされてきたが(“奴隷”の記述は階級闘争を進めるソ連の教科書に初めて記述された)、一人の王が複数のピラミッドを築いていることや内部からは墓としてのミイラがまだみつからず、多くのピラミッド建造に関わったとされる住居跡から豊かな生活物資や住居人のミイラ(身分が高くないとミイラにはされない)が発見されたことなどから、農閑期における公共事業説がほぼ定説となっている。語源はギリシア語で三角形のパンを指すピラミス(πυραμ?? pyramis ピラムス、ピューラミスとも)。古代エジプト語ではギザのピラミッドに「昇る」という意味の「メル(ミル、ムルとも。ヒエログリフでは△と書く)」という言葉を当てていた。
巨石を四角錐に積み上げ中に通路や部屋を配置した建造物で、王が天に昇る為の階段としての役割や、その斜の外形が太陽光を模したものであるとも考えられている。ピラミッドは、単体で完成したものではなく付随する葬祭殿等との複合体として考えるべき特徴を持つ。(大ピラミッド等の代表的な例では)ピラミッド本体には基本的に北面に入り口があり、玄室(と思われる部屋)に至る道や「重力分散の間」と呼ばれる謎の機構等未解明の仕掛けがある。労働者の墓の発掘で、多くの死者が出たことがわかっているが、来世を楽しみにする古代エジプトの死生観ではむしろ神のために死ぬことが喜ばれた。
wikipediaより
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ピラミッドの風景写真